昭和46年08月13日 朝の御理解
御理解 第23節
「氏子が神と仲ようする信心ぞ。神を恐れるようにすると信心にならぬ。神に近寄るようにせよ。」
氏子が神と仲ようする信心。これはお道の信心とはと極めねばならんでしょうね。氏子が神と仲ようする信心ぞという前に、金光様の信心は、氏子と神が仲ようする信心ぞと言う事。外の信心にはあてはまらないですね。氏子が神と仲ようする信心。神を恐れるようにすれば信心にならぬ。神に近寄るようにせよ。仲々難しい話ですね。仲が良過ぎて神様を軽うみるようになったら大変ですからね。
これは先生と信者とも同じです。やはり取次者と取次がれる者と、私仲ようする信心と思うですね。だからと言うて、あんまり仲がようなって、接近しますとね、接近しすぎますと頭が下げられなくなる。こげんなると頭が下げられん、適当なところでないと、ですからここの辺のところは、仲々難しい。神と仲ようするといっても、神様を友達のごとあるとかというのでは、おかげにならん、仲々ね。
それかと言うて遠くから頭を下げるのではね、いわゆる通じない実感がでない。実に神様と私共の仲、金光大神と私共の仲は、如何に適当なところにあらなければいけないかという事がわかります。やはり先生が友達のようになって、先生の肩叩くようになったら、もうおかげは受けられんと昔からいわれております。えらい先生と仲がよいのは良い事なのですけど、先生今夜ちょっと飲みに行こうかと誘いかける。仲がよい飲みにいきなさる。そうなるとおかげが受けられなくなる。
飲みに行く事が悪い事じゃない。けどそこにはそこにきちっと。仲ようする事、又は教導するという事ではない。その辺のところになると仲々難しい。そこで私は思うのですけどね、お互いがね、これは取次者と取次がれる者とでもよいのですよ、神様はもうこのような方ですから、私共が本気で頂かねばいけない事ですね。どんな場合であっても、実意丁寧であらねばいけないと言う事。これは例えば人間同志だってそうですよ。本当に気分があってよく付き合いをししておる。仲ようしよる。
ところがですね、いっぺん相手から裏切られるというか、実意を欠かれてごらんなさい。もう百年の恋もいっぺんにさめてしまいますでしょう。そのようなもんです。だから私共はいつもその実意であるという事、それはまあ、辛抱出来るという事でもある。そしてお互いに育ておうていこうと努力する事はよいですけど、それがいつもそうであったら、だから本当の仲ようすることもできない事になります。
これは夫婦の仲だってそうです。夫婦の仲が良いからこそ子供も出来るのです。けれどもですね、それが主人であろうが、家内であろうが、どっちかが実意を欠いたり欠かれたりしたら、もういや-になってしまうですね。大変なところですよ。だからどういう仲にあっても、例えば家内が主人の世話をする、それはもう、付きっ切りで至たれり尽くせりする事が私は、実意じゃないと思う。出来ん時はすみませんと実意をもってすみませんといえば、うんよかよか今日は俺がすると言う事にもなるでしょう。
昨日は朝から、西岡さんがお盆であるから帰りたいとお届けがあっとりました。それで昨日の朝の御理解がおかげの泉の今月号のそれになるのです。ですからそれを原稿用紙にとっておかねばならない、だからそれをすませて、夕方からやらせて頂くというておられたが、帰りたいのが一心で一生懸命でしたね。原稿用紙に書かないで普通の用紙に書いてある。それでは訂正も出来ませんので、原稿用紙に又、書かねばならんと言う事になる。それでは何と実意の無い事じゃろうかと私は思いました。
成程、原稿用紙に書けば時間が長くかかるかしれません。だからとうとう、日吉さんが又、沢山の時間をかけて原稿用紙に写し直さにゃならんと言った様な、二重手間がかかる。たった実意を欠いただけ、そこに何かちょっといやなものを感ずるでしょうが。それなら、むしろ今日は始めから、私は帰りたいと思いますから日吉さんにお願いしますといった方がどの位美しいがわからん。それの方がむしろ、実意なんです。
ですからこれは友人関係であろうがもう、あらゆる人間関係が難しいというのは、必ずどちらかが、実意を欠いたからです。又両方が実意を欠きおうておるからです。私はそう思うですね。だから実意という事は、先程から申しますように夫婦なら夫婦の間でも掛かりきって主人の世話する事じゃないと、例えば掛かりきって世話しておってくれても実意を欠いとったら、お前からして貰うごとなかというような心が起こってくるです。そうじゃない、実意を持って私は神様と私共の仲でも同じです。
もう毎日毎日、朝参り夜参りしよるから神様と仲ようしよるかというと、そうじゃない。それは遠く離れておっても、神様とそれこそ密接な、それこそ関係を保ちながら、信心を有難いというている人もあります。ですから問題はその心の問題。 神様と仲ようすると言う事、そこで神様と仲ようするという事が、なら、実意を以て、神様に接するというわけなのですけれども、ならどういう事柄を接したら神様と仲ようなるかと言う事、実意も持って願う、実意をもって頼む。
成程実意をもって頼むから、牛、馬のことまで願えばおかげを下さるわけなんであります。だからおかげを頂くから神様と仲良いという事もいえるのです。いうならば、神様があの氏子がおってくれたらと例えば思し召すようなもの、神様と仲ようすると言う事は。私はその事を今でも、記憶しとりますが、むつ屋の田代さんがおられるころ、それも椛目の創設の頃です。むつ屋をつぶすかつぶさないかという、止めるか止めないかという時に石井さんがお伺いに見えた。
それから兄弟がお参りになられるようになり、むつ屋を継続するという御神意のままにおかげを頂いて、大変おかげを頂いておられた。当時椛目のおかげの受け頭というておられた。おかげの頂き頭という事はお店のおかげの頂き頭という事でしたけどと、いろんな御用が出来る事も、やはり第一人者であられたでしょう。そこのところはどういう所からそういう事になっておったかといいますとね。
ある晩の御祈念に参られてから、田代さんが、私は何の事だったでしょうしらん、私がちょっとそれを忘れましたが、田代さんほんとにむつ屋のおかげで椛目がたちますと私が申した事があります。そしたら一歩下がるごとあるふうですね。はあぁっとひれ伏されて、親先生、親先生あっての、おかげでむつ屋がたちよりますといわれた事があります。もう、それが実感じゃったわけでした。
成程御用さして頂きました、けれども御用が出来るようになりましたのも、親先生あなたのおかげでございますとこういうわけなんである。ね、むつ屋があって椛目がたちます、椛目があってむつ屋がたちますという。私は仲ようすると言う事はそう言う事じゃないかと思います。例えば今日は十三日、十三日はいわば、神願成就、いわば神様の願いが成就する日としてお知らせ下さって以来、もう十何年でしょうか。
十三日会が持たれるようになり、皆さんがここでは一番信心、本当の信心になった姿というのが、十三日会に表れる気が致します午前中は教会内外の清掃などに一生懸命御用なさる、そして一あのように時から合楽では、一番の熱心な信心共励が、もうあの時には、老いも若きも信心の程度の低いもの高いもの皆集まって、信心の共励をさして貰う。それもどういう信心をさして貰う事が一番神様が喜んで頂けるかと言う事がテ-マとなって、信心が共励される。
私はこの十三日会のような精神とでも申しましょうか、これは私は神様と仲ようしていくひとつの前提となるもの、実意をもって願う、頼むと言うことだけでおかげを受ける。けれどもそれで神と仲ようする信心じゃない。朝参りする、夜参りしよるから、神様と仲ようするのというものでもない。本当に仲ようしていく事の為の手立てとして、神様の心は、いよいよわからして頂こうとする願い、そしてその神様の心に添い奉ろうとする実意、そこから私は神と仲ようする信心が生まれてくると思う。
若しどうでしょう、願っておかげを受けた、おかげを頂いたらね、信心も出来んのに、これはもうどんなおかげを頂いても、信心も出来ませんのにという事ですけれども、いうなら、実意を欠いて、神様の喜び頂けるような信心もない。例えばいうなら、巨万の富のおかげを頂いたとしましょうか、どうでしょうか。神様は必ず怖くなりますよ、ほんにこげんおかげ頂く事は頂いたばってん、いつ神様がお気づき下さって、いつ神様がとり上げなさるかわからんと言った様な気がおこってくるです。
不思議に、いわゆる神様が怖くなってくる。それとまあ、意味合いは違いますけど、神様は有難いお方じゃと同時に怖い神様とわかれと教えられますが、だからそれは又、ちょっと意味が違う。例えば、神様の御内容の中に父性愛的な情をもって、又は母性愛的な情をもって鍛えて下さる。そういう場合ですね、叩かれるから怖い、ある人がね、却って一生懸命参らん方がおかげを頂くという人がある。確かそういう事もあるのです。一生懸命お参りする、信心が分って来る。
だから鉄は熱しておるうちに打てと言われる、いわゆる信心に熱くなってきたから、本当なおかげを下さろうとする神様の働きがです、熱しておる時に叩かれる。そこからつまらん【】気をとられてしまって真になる、いわば力になるような刀一本の鉄を打ち上げる為には、六貫目の鉄を鍛えるという事ですからね。ひとふりの刀を、その六貫目の鉄を例えば、火花を散らしてなくなってしまう程しに叩き上げられる。だからいわば、そういう事がです、怖がってはならんという事になる。
叩かれる手の下から、神様の情がわからして頂けるという信心、そういう中から生まれてくる神様と仲ようなるという信心が素晴らしい。これはね、氏子と神が仲ようする信心、だから他の信心の事じゃない、金光様の信心は氏子と神が仲ようする信心なのであります。ですから、まず欠いでならないのは実意である。結局実意が金光様の信奉者の性根の中に実意が入り込んでしまう所までおかげを受けなければなりません。
ちょっとした実意を欠いた事でそれこそ百年の恋もさめてしまうようで事ではつまりませんからね、それが自分の信条になってしまうところまで、実意を身につけていき仲ようする信心、どういう事になりますでしょうか、神様と仲ようする信心。しかも叩かれても怖くない程の信心、いや叩かれても有難いという信心になったら、どういうおかげになってくるでしょうね。
教祖様は天に一家が出来た、天に親類ができたから、降る照るの事までお知らせを頂くようになったという事を申しておられますね 神様と親類付き合いができる。いわゆる今、私が申しましたようなところをです、仲ようしかも恐れない、しかも叩かれても怖くない信心。そういう信心からいよいよ天地が自由になる程しのおかげが頂かれる。おかげというよりお徳が受けられると言う事になりますでしょうね。
どうぞ。